ややこしや!オーケストラの配置イロハ。

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わたしがそなたで そなたがわたし
そも わたしとは なんじゃいな

~中略~

おもてがござれば うらがござる
かげがござれば ひかりがござる

~中略~

ふたりでひとり ひとりでふたり
うそがまことで まことがうそか

ややこしや ややこしや!
ややこしや ややこしや!

NHKの教育テレビは昨今ものすごいクオリティを秘めていて、相当なクリエーターたちが日々アタマをひねって面白い番組を作ろうという精神が感じられる、日本でも有数のTV局(NHKですけど)と思われる。

その中で『にほんごであそぼ』という番組がある。
日本の古典芸能や有名な文学をポップに伝える見事な番組で、ここにかの有名な狂言師である野村萬斎が登場する。狂言の独特の言い回しで、「汚れつちまつた悲しみに…」「雨にもマケズ・・・」などを紹介していく中で、この「ややこしや」が歌われる。けっしてなだぎ武ではない。
そういえばFUIJIWARAの原西孝幸も『いないいないばあっ!』の「ぐるぐるどっかーん」からネタを引用して『ぐるぐるぐるぐるどっかーん』をひたすら繰り返すネタをたまにやるが、教育テレビはそういう意味でもネタの種子が埋まっている見事な番組なのでしょう。

『おもてがござれば うらがござる。かげがござれば ひかりがござる・・・』

そのあとに教育テレビで『クラシック音楽館』を見ていてふと気づく。
こないだ見た時は、ヴィオラが右側にいたけど、今回はセカンドヴァイオリンだ!あれ?こっちがヴィオラで、あっちがセカンド?ヴィオラがセカンドでセカンドがヴィオラ?もぉ~!ってこれはなだぎ武のネタw。

<古典配置>

古典(対向・両翼)配置のメリット
古くはベートーベン、ブラームスやチャイコフスキーから現代オーケストラの主要レパートリーである、ブルックナー、マーラー、R.シュトラウスなどは、作曲者念頭に置かれているのがこの古典配置と言われており、その当時の音楽的な響きを正確に再現できる、とされる。欧州のオーケストラではこちらの配置をとるケースが多いとされ、例えばベートーベンの『田園』、チャイコフスキーの『悲愴』などはこの古典配置ならではのステレオ効果を音像で楽しむことが出来る。

古典(対向・両翼)配置のデメリット
ところが時代は発展の歴史。
ショスタコーヴィチ『交響曲第5番』の第3楽章は、ヴァイオリンが「ファーストヴァイオリン、セカンドヴァイオリン、サードヴァイオリン」の3パートに分かれる。これだけでもややこしや~な世界であるが、実はパート譜においては、本来のファーストヴァイオリンとセカンドヴァイオリンのそれぞれに、全3パートが記載されている。もぉ~w。
これが古典配置だと、分割は不可能か、もしくは、極端にやりにくくなる。
そばにあるはずの音が、はるか彼方から聴こえて来る訳ですから。
リヒャルト・シュトラウスの楽劇『エレクトラ』でもヴィオラとヴァイオリンでぐちゃぐちゃ指定があり古典配置だと不可能となっている。

<通常配置>

通常配置の歴史

世の一般的な通説として、20世紀の名指揮者であり「音の魔術師」と言われるレオポルド・ストコフスキー(1882~1977)が広めたと言われ「ストコフスキー式」「アメリカ式」とも言われるこの通常配置。実際は同じくイギリス生まれでイギリスのクラシック音楽イベントとして今でも続いている「プロムス」の指揮を第1回目から務めたヘンリー・ウッド(1869〜1944)が、長く続いていた古典配置の慣例を破って、左側に全ヴァイオリンを並べた。これが後にミラノ・スカラ座で弦を音高順に配置するスタイルに発展し、現在一般に定着している。
ヘンリー・ウッドは同世代のトスカニーニやメンゲルベルクらの陰に隠れた感があるが、これは結構刺激的な出来事であり、この斬新な配置を「作曲家によって意図された交互に歌い交わすような効果を破壊する」と批判されたが彼は「より良いアンサンブルが保証され、全てのf字孔が客席に向いているので、音量と音質が改良される」と述べた。
まぁf字孔といってもヴァイオリンだけだし、ヴィオラの意見はどうなんだ、って議論はまた今度。

通常配置のメリット

より良いアンサンブルが保証され、全てのf字孔が客席に向いているので、音量と音質が改良される、というヘンリーウッドの主張もさることながら、アンサンブルのしやすさがいちばんと思われる。
音響的効果やアンサンブルの水準向上・維持など、その背景は様々と推測されるし、フルトヴェングラーも楽壇復帰後この配置を採用しているが、各声部の明晰さよりは音響の一体感を志向しているように思われる。また高音楽器→低音楽器と配置するため、オーケストラの各パートが互いの音を聞き取りやすいという合理的な面があるとも言われている。

通常配置のデメリット

ところが、それは演奏する側の都合であって作曲家の意図するところでは無い、という主張もまた然り、ではある。演奏のしやすさと、作曲家の理想は時に合わないのではないか、ということであり、響きを重視する指揮者は古典配置を主張することも多い。
また曲によっては明らかに古典配置を採った方が良いと思われる曲も存在する(前述の『悲愴』などは特に)。

<ウィーンフィルでよくある配置>

ムジークフェラインザール(楽友協会ホール)でコンパクトに納めるにはこれしかないのか・・・と思われる配置。ここにさらに観客が裏手サイドに着席するなど、詰込み型を自称する日本人も真っ青な狭さを誇る。

 

<N響でよく見かける配置>

古典配置を採る時に、どうしてもファーストヴァイオリンの隣にチェロが来てしまうと、どうにもこうにも内声部が聴き取れずやり難い、という声が反映されたのかどうか不明だが、ファーストの隣にヴィオラという配置も存在する。

 

まぁ、こんなややこしや~な「配置」にこだわって議論をしても、ひとつひとつにやはり理由があって深いテーマになるものの、1000年近い歴史を持つオーケストラだが、17世紀に至ってもまだ楽器の配置については特段の考えはなかった模様。実際これほどの大編成にはなりえなかったので、弦楽器と管楽器が横並び、とかその程度であったと思われる。
この楽器の配置について考え始めたのはごく最近のことと言われており、配置の考察が始まるのは18世紀に入ってチェンバロが楽団長的な存在感を増して中央部に鎮座するようになってからと言われている。おそらくはチェンバロが指揮(指揮的な動き)をするようになったことから、チェンバロを中心とした配置となり、さらに配置によってサウンドが変わることから配置についての研究が進んだものと思われる。
ヴァイオリンはかなり早い段階から指揮者の左右に広がっていたとされ、やはり主旋律は指揮者のそばにあった模様。なお通奏低音の役回りを担っていたチェロやコントラバスはあちこちにばらばらに配置されていた。またオペラでは独特な配置が良くとられていて、18世紀後半のイタリア歌劇場では指揮者は一番左端に鎮座したりもしていたようである。
その後オケが大型化するにつれ、指揮者は中央に定着する。その後18世紀の終わりまでには現在のスタイルに近い配置が見られるようになり、19世紀になって楽器の配置について議論が進むようになり、古典配置、通常配置、といったアイデアが示されるようになった。
その規範となったのが、かの有名な作曲家ヤーコプ・ルートヴィヒ・フェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ・・・(長いので以下メンデルスゾーンとする)が1835年にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に任命され、その彼が新しい配置として示したものがベースとなっている。

無論、現在の姿とは似ても似つかない部分があるが、これは『目上(身分が上)の人物が目下(身分が下)の者に話しかける場面では、舞台上手から下手に向く』という舞台芸術における伝統、慣習に基づいたもので、ファーストがセカンドより上位であり従い舞台下手にファーストを配置する、という当時からすれば至極当たり前の哲学に沿ったもの、と言える。とは言えこれが古典配置の基本となり、そして現在の通常配置へ繋がると思うと歴史の重みを感じるものですな。

以下、メンデルスゾーンとする、といいながらメンデルスゾーン出てこなかったねw。

 

 

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